くさやまの / 行く春 / 草の若葉 / 川のほとり

日曜日, 1月 27th, 2013

●古泉千樫の歌

草山の奧の澤べにひとり來てなはしろ茱萸をわが食みにけり
(くさやまの おくのさはべに ひとりきて なはしろぐみを わがはみにけり)

●古泉千樫の歌の注釈

(訳)まぐさを刈る草の山の奥にある沢のほとりに、ひとり来て、なはしろ茱萸を、なぁ、食べたのだなぁ

草山(くさやま):日本国語大辞典だと、江戸時代、まぐさや肥料にするための草を刈る山で、多く一村または数村の入会地であった。草場。とある。古泉千樫は農民だったので、この意味のほうが正しいと考える。

澤べ:大辞林では、沢のほとり、とある。

なはしろ茱萸:山本健吉『季寄せ』には、仲夏(芒種6/6-小暑7/7の前日まで)の季語「苗代茱萸」があり、蔓性の常緑樹で、枝に刺(とげ)がある。田植どきに、長楕円形の実が赤く熟するので、はるぐみ・俵ぐみとも言う、とある。また、大辞泉では、グミ科の常緑低木。暖地の山野に自生。枝はとげ状になり、葉は長楕円形で縁が波うつ。秋、白い花が垂れて咲き、実は翌年の田植えのころに赤く熟し、食用となる。はるぐみ、とある。

わが:文語なので普通に解すると所有を表す「私の」となるが「私の食べたのだなぁ」とは訳が分からぬ。この「わが」は、折口信夫『万葉集辞典』の「我(わ)」の条に、動詞の人格を表す様な方法、とあるそれか。次条の「わ」には、人称代名詞を動詞にわざわざ添へて言ふ、「かづきせな吾(記)などの……とあるので、言葉の調子を重視した呼びかけと解する。したがって訳は無い。「私は」などという現代語ではないので、あえて言うなら、「なぁ」とか。

食みにけり:マ行四段動詞「食む」の連用形「食み」+完了の助動詞「ぬ」の連用形「に」+詠嘆の助動詞「けり」の終止形=食べたのだなぁ

――「わがはみにけり」あたりの用語が古代歌謡ふうなのだろう。橋本徳寿さんの『古泉千樫とその歌』には、多少民謡風な匂ひもするが声調流水のごとくよく朗詠に堪へる、……略……底流をなしてゐるものはやはり、相聞哀愁のひびきである、とある。

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